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ボランティアツアーで南三陸町に行きました

こんにちは。山下です。
先週末の土日に、ボランティアツアーで南三陸町に行ってきましたので、そのときのことを書きます。

1、ボランティアツアーに申し込む

10月の中頃、「東北の自転車紀行はいったん終わったし、次はボランティアに行こうかな。でもまだやっているのかな?」と思いつつWEBを見ていたら、ボランティアツアー(以下ツアー)がいろいろ見つかりました。

宮城県より遠くは、自分の車で行くのはきつそうだし、被害の大きな沿岸部は新幹線の駅から遠い場合が多く、公共機関で行くのも厳しいということで、ツアーで行くことにしました。

土日にボランティア活動ができて、観光が無いツアーを探しました。
ほとんどのツアーが往復ともにバスで、行きは金曜日発の夜行で、帰りは日曜日の朝・夜、月曜日朝などですが、その中に往復新幹線のツアーがありました。
JTBの南三陸町に行くツアーです。34,800円とバスと比べると高額なのですが、宿泊や夕朝食は南三陸町内の大きなホテルだし、往復が新幹線だと、疲れも軽減されるだろうと、WEBで申し込みをしました。

行くにあたり、
「被害の状況を見たい。復興の兆しがどれぐらいなのか見たい」
「住んでいる方、復興にたずさわる人、ボランティアの人、観光に行く人など、人を見たい」
「作業的にも消費的にも少しでも役に立とう」
と思いつつ、出発に向けて準備をしました。

<参考>ボランティアツアーのリンクサイト
http://tasukeaijapan.jp/?page_id=3813

2、ツアー1日目が始まる

11月5日(土)朝8時に東京駅に集合です。そこで、東北新幹線の「くりこま高原駅」(仙台より2つ先の駅)行きの指定席のチケットを受け取ります。
行きの新幹線は参加者の席はばらばらで、各自で新幹線に乗ったので、一人で気楽にスタートです。

ほとんどの席が埋まっています。私の周りは、合唱団の20人以上のグループで、宮城の酒蔵を訪ねるツアーの方々のようでした。50代~60代ぐらいとおぼしき方々中心に盛り上がって楽しそうです。合唱団だけに、酔っぱらったら歌うのでしょうか。

東京から約2時間半、11時すぎにくりこま高原駅に到着しました。
改札前に参加者が集まりました。全部で35名、ガイドの方1名の総勢36名です。

1くりこま高原駅
<くりこま高原駅>

駅前には南三陸町に向かうバスが待っており、みんな順々にバスのトランクに荷物を積み込み、バスに乗りこみました。
今回のメンバーは、みんな時間前に集まり、動きが早かったのは、ツアーが最後までスムーズにいった要因だと思います。

ツアー参加者は男女比はほとんど半々で、40歳ぐらいを中心に20代から50代の人までいるように思いました。ボランティアが初めての人が半分ぐらいでしょうか。
バスの中では、まずはツアーの連絡事項や、注意事項などの説明があり、あとは窓の外を眺めたり、昼食を食べたり、眠ったりしながら進みました。

3、南三陸町に入る

さて、バスに乗って1時間半、太平洋岸に向かって走っていきます。途中、北上川を渡り、登米市(とめし)を通り、八幡川に沿った道を進みます。

山と山の間を抜けて、平野が広がってきたときでした。
片側にはつぶれて積み重ねられた何100台もの車が、反対側は家の土台のコンクリートが、そして川の脇にはひっくり返った舟が。

2被災地
3被災地
<国道を山から町へ(写真が青いのはバスの窓の影響です)>

そこからは海に向かって進むほどに、平野が広がり、荒野のようになった町がありました。遠くからも海が見えます。その中で、大きな病院やショッピングセンターなどの4階ぐらいのビルはどれも窓にガラスは無く、コンクリート部分だけが残り、ビル全体が津波を被ったことが分かります。海から1キロは離れたと思われるビルも3階以上の窓にガラスはなく、中は空洞になっているか家具やガレキが重なっていました。

4被災地
5被災地
<町の中心部>

6-被災地
<町の中心部から山側(左奥の赤の鉄骨が残っているのは防災対策本部だった建物)>

6被災地
<海から500m以上離れたビルの上に車が>

また、ガレキの大きな山や、車の山、タイヤの山、ボランティアが掃除してガレキなどを入れた袋などがところどころにあります。

鉄道の線路はなく、高架橋もほぼなくなっており、トンネルと土盛りで、よくよく見ると元々は線路だったことが分かります。

主要駅の志津川駅は長いホームが2本あり、それには屋根もついており、待合室や売店がある小さくない駅舎があり、駅裏には線路の信号施設や引き込み線もあるのですが、もはや駅があったことすら分からない状態です。

7トンネルと線路跡
<トンネルと線路跡>

8一部残った鉄道高架
<わずかに残る高架跡>

8志津川駅
<志津川駅(気仙沼線)>

そして、海に近づくと地盤沈下のせいで、川の水面が高く、大潮になったら海水が地上にあふれるのだろうと思いました。

9川
<中心部を流れる八幡川>

少しでも生活感があるのは、ワンボックス車のラーメン屋台、物置のような仮設小屋を事務所にして営業しているガソリンスタンドが数件、そして仮設の小さな商店やコンビニが数件です。

10セブンイレブン
<仮設のセブンイレブン>

バスは町の中心部を通り抜けて、別の山のほうに再び登っていきます。しばらくは津波の被害跡が生々しく残り、山の谷間にある川や道の上をかなりの高さまで津波が来たことが分かります。

さらに登って、津波が届かなかった場所にいくと、家があったり、仮設の店がまとまってあったりしました。
さらに進むと、小高い山の上のほうに総合スポーツ施設があり、そこが災害対策本部の拠点になっており、町役場や消防署、病院などが仮設庁舎を作って移転してきていました。また、災害ボランティアセンターという、ボランティアの情報や多くの備品の管理をしている、災害ボランティアセンターもありました。

11南三陸町ボランティアセンター
<南三陸町ボランティアセンター>

12ボランティア向けキャンプサイト
<ボランティア向けキャンプサイト>

13仮設町役場
<仮設町役場と私(2日目撮影)>

4、ボランティア活動(1日目)

今日は午後からボランティア活動ですので、ガイドの三浦さんがボランティアセンターにまとめて活動申請をして、トイレ休憩をして、活動に必要なものを身につけて、早速バスに乗ってボランティアの活動場所に向かいます。

1日目は、志津川駅近くの片づけです。
最初に現地のボランティアリーダーのキムさん(名札がカタカナ標記なのです)より説明がありました。ガレキや廃棄物の分別、持ち主に返せるような写真やお金を見つけたらリーダーに渡すこと、そして作業場所での写真撮影禁止、無理をしないことといった話がありました。

キムさんはてっきり南三陸町の方だと思っていましたが、聞くと、震災後に神奈川県の川崎市から来て、ずっと南三陸町のボランティアに携わっているとのことでした。そんな人もいるのかと驚きました。
20歳ぐらいのようですが、わかりやすく説明し、目配り、気配りもできる、優れたリーダーでした。

活動場所は、大きなガレキはすでに無くなっているところを、シャベルと手で、ガレキ、金属類、燃えるものを分けて山をつくっていきます。すでに更地のようになっているところや、住宅の土台だけが残っているところがあります。
この日は南三陸町全体で300人ぐらいのボランティアが入ってるそうで、そこにもすでに100人ぐらいの人が活動をしていました。
そこに交じって、まだしていない場所などを片付けていきます。

更地のようなところは、かなりきれいになっていますが、特に住宅の土台があるようなところは、重機ではきれいにしきれないせいか多くの廃棄物があります。
2度ほど休憩をとりながら、35人のメンバーが同じエリアに散らばって2時間半ぐらい作業をして、燃えるものを入れた大きな袋や、ガレキの山がいくつかできました。
初日なので、メンバーの連携はなかなか難しいのですが、安全でやりやすい作業でもあったので、活動は進み、2日目に向けてのいい準備にもなりました。

この場所が、今後何になるのかは決まっていないようですが、まずは町をきれいして、町の方々に少しでも喜んでいただくけたらいいなと思いながら作業をしました。
そして、何を造るにしても、丁寧に人の手で思い出の品や廃棄物を拾い上げたあとに、改めて町を構築していくことに意味があるといいなと思いました。

5、ボランティア活動の後

作業終了後は、バスでボランティアセンターに戻り、そこでボランティアセンターを運営する南三陸町社会福祉協議会の会長さんのお話を30分ぐらい聞きました。
お話は地震と津波が来たときの話、その後の話、今後の復興に向けて人の気持ちの難しさなどいろいろいただきました。会長の奥様も震災で亡くなられたとのことでした。
「来年3月まではボランティアセンターは継続する。まだまだすることはあるので、個人でも団体ででもボランティアには来て欲しい」ということでした。

16時半ぐらいになり、宿泊先の「南三陸ホテル観洋」に向かいました。

14ホテル観洋
<南三陸ホテル観洋>

三陸随一のリゾートホテルで、250部屋もある巨大ホテルです。高台にあるために、下の階は津波の被害があったようですが、震災後しばらくは停電や水なども通らない中、多くの避難者や救援や復興に携わる人を受け入れ、南三陸町の災害対策のひとつの拠点となったホテルです。

5人ぐらいずつでひとつの部屋に入り、まずは風呂に入って汗を流します。

食事の前に、被災された方の話を1時間ぐらい聞きました。
民話を話す会の方にお話いただきました。とても分かり易くお話をいただきました。震災当日の話、大切な人を亡くした話、その後精神的に参ってしまった話など、当日から何ヶ月もの間、緊張と不安が続き、ようやく少し落ち着いてきて人前で話ができるようになったとのことでした。
「とにかく自分の命は自分で守らなきゃいかん」というのが印象的でした。
状況を本当に理解することはできないのですが、被災された方ひとりひとりにとって、多くの思いや不安があることが、少しわかりました。

この日のホテルは満室で、観光客や知り合いを訪ねて来た人、いろんな集まりや、ボランティアの人がたくさんいて、ホテル内は明るいざわめきに満ちていました。

従業員の方々はとても感じよく、売店は充実、風呂は広くて海が目の前に見える露天風呂も気持ちよく、夜の闇の中で、海に浮かんだウミネコの体がホテルの明かりに白く光って、波間にゆらゆらしていました。

また、食事はボランティア向けは定食のようなものかなと思っていたら、観光ホテルらしく海の幸がいくつもの器にのったお膳が出てきました。ビールなどを飲みたい人は飲みつつ、おいしくいただきました。
食事の際に、ひとりひとりが簡単な自己紹介をして、来た動機やボランティア経験などを少しずつ話しました。これが、その後お互いに話をするのにとても役立ちました。食後は自由なので、何度か風呂に入ったりして10時すぎに寝ました。

6、2日目

朝は6時ごろに目覚めました。身体の調子も良さそうです。
天気は曇りで小雨がぱらついていましたが、作業はできそうです。
窓からは三陸の海が一望でき、ウミネコ(カモメの一種)たちがたくさん飛んだり、ベランダにとまったりしていました。つかまえられそうなぐらい近くにとまって、横目でこちらをうかがっています。残念ながらエサはありませんでした。

15美しい海と島
<三陸の美しい海と島>

16打ち寄せる波
<ホテル下の岩場>

17ベランダのウミネコたち
<ベランダのウミネコたち>

朝8時15分にホテル前に集合して、ボランティアセンターに向かいます。少し雨が降っているので、一応雨具を着こみました。(雨はひどくならなかったので、作業の途中で暑くなって脱いだのですが)
ボランティアセンターで支度をして作業場所に向かいました。

2日目は1日目と違う場所で、南三陸町の復興の象徴として、商店が20店ぐらい集まって仮設の商店街を作ろうとしている広場の、側溝掃除でした。
海から1キロ以上離れた山の手前ですが、広場の前にある町の合同庁舎や消防署は3階まで完全に津波が通り抜けており、「火」「の」「用」「心」と書いた4つの大きな石だけがそのままに残り、消防署だったことが分かります。

そこはすでに更地になっています。
着いた時にはどこに側溝があるのだろうと思ったのですが、側溝は土やガレキで埋まっていて、ぱっと見ただけでは分からなくなっていることが分かりました。

我々35人と、午前中は鎌倉からバスで来た人たちと一緒に活動開始です。
我々の分担場所は細い溝と太くて深い溝を合わせた100メートルぐらいで、溝には大小のガレキや土などが入っています。
メンバーが数人ずつかたまりになって、溝を掘っていきます。シャベルで掘っては、燃えるもの、ガレキ、金属、土と分別して、それぞれの置き場に一輪車などで移動していきます。

2日目なので、道具の使い方や、自分ができることなどが分かっていたり、お互いのコミュニケーションもなめらかになり、さらにこの場所が復興の象徴になるということで、みんなのやる気も高まります。
昼休みをはさんで9時ごろから15時ごろまで、広場の側溝をキレイにして、道沿いの排水溝まで水が通るようにして、さらに広場周辺の草を抜いたり、広場内のアスファルトの上に乗った土や石を除いていきました。
みんなが周りを見ながら連携しながら、それぞれが得意なことやできることに力を発揮し、一丸となって作業を進めることができました。
これからどんな商店街ができるのか楽しみです。

終了後は、片付けをして、ボランティアセンターを経由して、再びホテル観洋行き、お風呂に入り、帰りの荷物をまとめて(長靴がかさばるのです)、ついでにお土産を買ったりして、17時ごろにバスに乗りました。

ホテルの方が「ありがとうございました。南三陸町にまたお越しください。」(文字は少し違うかもしれませんが)と手書きで大きく書いた白い布を持って、手を振って我々のバスを見送ってくれました。

再度、町の中心部を通りましたが、すでに車窓は薄暗くなりつつありました。
作業をした広場の横を通りましたが、隣の消防署があったところでは、コンクリートだけが残った建物の、消防車が入っていたと思われる1階にある献花台で、ご家族と思われる方々が手を合わせていらっしゃいました。

バスは南三陸町を後にして、新幹線のくりこま高原駅に向かいました。
19時前の新幹線に乗って、参加者は郡山、上野、大宮と少しずつ手を振って別れ、21時30分ごろに東京駅に到着。みんなで「おつかれさまでした」と挨拶して、それぞれの家路につきました。

■所感など

・ボランティアに行って思ったのですが、復興に必要な作業で、人の手でないとできないことをするとともに、そこにいること自体に価値があるのではないかなと思いました。

いろんな貢献の仕方のひとつではあり、被災地を気にするだけでも価値があると思いますし、さらに、知りたい、行きたいと思い、「そこにいること自体」も、被災されている方々の力に少しでもなれるのではないかなと思いました。

道路も整備されてきているので、ボランティアでなくとも、行って見るだけでも価値があると思います。
(整備の進みぐあいは場所によりますし、観光地ではないので、見るマナーは大切ですが)

・町全体を見て、ガレキはまとまってきているのですが、ガレキを別の場所に持っていき、町を構築するのはこれからです。現在、壊滅的な場所にあるのは仮設の建物ばかりです。
みんなが住みたいと思う町づくり計画ができて、仕事をして暮らす場が早くできればいいなと思いました。

・ホテルのおみやげ売り場では、安くておいしそうなワカメや魚などの加工食品がいろいろありました。(ホテルが、大手の水産加工販売会社である阿部長商店の系列だからというのもあると思いますが)

三陸海岸には日本を代表する漁港が並んでいますので、住んでいる人たちは、漁業やその関連した仕事で生計を立て、おいしい魚を食べて、生活が海とともにあるのだなと思いました。

だから、本当の海の恵みを恐さを知っている人たちで、私のように日々の生活に海がない人とは、海に対する見方や、生活の価値観も違うのだろうなと思いました。町づくりにおいても、住んでいる方々の生活や価値観に合わせることが大切だろうなと思いました。


今回、行って、知って、汗を流し、温泉に入り、おいしいものを食べて買って、大満足なツアーでした。
それも、ボランティアセンターの方、ホテルの方、ツアーガイドの三浦さん、そして一緒に参加したみなさまのおかげです。ありがとうございました。

いつか、ウミネコにはパンをあげて、南三陸町で陸揚げしたうまい魚をたらふく食べたいと思います。

長文を読んでいただき、ありがとうございました。

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2012/02/11 00:17 | | # [ Edit ]

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